近畿大学で民俗学を専攻している大阪在住のチリ人、ハメイ・ロペス氏が今治の私の家についたのは3月22日の朝であった。彼はニホンミツバチを卒論のテーマにし、蜂と人間の生活のなかでの関わりを調べていて、愛媛の状況の調査のために訪ねてきたのだ。
私もずっと以前に、ニホンミツバチについて調べたことかあり、当時の記憶をたどって近くの数か所の巣箱を案内した。
通常、山野に置きっぱなしの多い巣箱の所有者に、たまたま話を聞くことができた。巣箱の所有者は秋山晋吾氏=今治市宮ヶ崎。巣箱は25−30箱くらい、秋山氏の自宅の周りと近くの神社の裏山に見られた。 |
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巣箱の確認後、秋山氏と偶然自宅前で会うことができたもので、ロペス氏は蜂の飼い方、興味の始まり、家族のこと、家業のことなど3時間質問をした。。その話の中で興味あることがわかったので書き留めておきたい。秋山氏は昭和50年に開店した居酒屋の食材のたれに蜂蜜を使えるのではないかと、趣味の山歩きでよく目にしていたニホンミツバチの飼育を思い立った。スタートはニホンミツバチがエビネによく飛来するのを見つ け、近くに運良くあったキンリョウヘンの鉢植に群がる蜂群を捕らえたことであった。 昭和52〜53年ごろにはキンリョウヘンを用意した巣箱で導き、捕らえて飼育、増群していった。 |
蜂蜜はたれにつかわれ、それは現在も続いている。キンリョウヘンで蜂が誘引されることはされることはおなじ山歩き仲間の愛媛県西条市の友人らのもとへ伝えられ、愛媛県東予の山沿いの待ちどうと呼ばれる巣箱に応用されている。
私の記憶でもミカンの蜂蜜のよく採れた昭和50年初めころから、秋山氏の自宅付近でよく蜂の分蜂を見ている。昭和58〜59年の私自身の調査でも、巣箱は確認している。西条市周辺の山野では確かに、調査年以降も待ちどうが増えており秋山氏のお話と一致する。その後、昭和60年に東京の研究者を同所に案内した。63年の4月、同じ大学ので、もう一人の研究者が、高松市の昆虫学会の合間に、宇和島のキンリョウヘンへのニホンミツバチ訪花調査で訪れ、やはり私が同じ場所を案内したが、巣箱のみを観察して帰った。 |
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過去の記録ではキンリョウヘンのニホンミツバチへの利用は昭和60年以降のようである。平成8年にも大阪から蜂の研究者で高校教諭、いや、高校教諭で研究者が見えて、ご案内したが、この時も秋山氏には会うことはなかった。私の自宅からたった4キロメートルのところで、昭和58−59年の調査で私自身が大きな見落としをしていたことに今、気付いている。今回、特筆すべきは秋山氏独特の自然へ向けられた鋭い観察、好奇心でエビネ、キンリョウヘンと巣箱を結び付け、それを他の人に広めていったことである。昨今は海外の文献の焼き直しをしたり、篤農のアイデアを取ったり、マスコミに登場するのが生き甲斐のような研究者、学者が目に付くが
秋山氏の有り様は本来の見る目をもつことを私に啓発するものである。蜜蜂誘引に利用されたキンリョウヘンとおもわれる蘭1鉢は、大阪に送って同定した。さらに増殖を計っている。
最後に、突然の訪問にもかかわらず気軽にお話をしていただいた秋山氏に心から感謝の言葉を申し上げる。今後、ロペス氏の民俗学調査がさらにより良く進展し、完結できることを願っている。 |